探偵 父をたずねて 2
平成十九年六月、探偵業の業務の適正化に関する法律、いわゆる「探偵業法」が施行された。主管の発表では、日本全国で約四千、東京で約六百の事業所が、それぞれ所轄の警察署に届け出をしたが、大半が小規模の個人経営で、地方に行けば兼業の人も多い。したがって、自宅と事務所を兼用している者もいて、依頼人と面談するのは外でということが多かった。一方の依頼人も事務所に来たがらず、例えば、駅の近くの喫茶店やシティホテルのラウンジなどでの面談を約束することが一般的である。その為、探偵社のほんとうの規模や信用性がわからず、あとでトラブルに発展するケースも少なくなかった。当時は探偵業法がまだなかったので、探偵事務所に対する一般の人の評価もそれほど高くなかった。
この日の依頼人のように、女性がひとりで探偵事務所に出向いてくることなどめったにあることではなかった。こうしてわざわざ事務所を見に来るという点からしても、依頼人の芯の強さを知る思いがした。同時に、一応は探偵社としての体裁が整っている事務所を見た依頼人が、依頼の気持ちを固めた様子が見て取れた。
しかし、まだためらいの気持ちもあるようだ。
「ご依頼の内容はどのようなことでしょうか」
そうした依頼人の気持ちをくんで水を向けると、依頼人は伏し目がちに切り出した。
「実は、わたしのことを調査してほしいんですが」
この言葉を聞いた瞬間、「ああ、またか」と少々うんざりした気持ちになった。責任者に面談したいという依頼だから、さも込み入った調査依頼なのだろうと考えていたのだが、こんなことなら、やはり調査部長に対応を任せて雀荘にいけばよかった、と内心思った。
探偵社では、調べる対象者、すなわち被調査人のことを、マルヒという隠語で呼んでいる。これは、調査中に調査員同士で連絡を取り合ったりする場合、対象者の固有名詞を出して万が一悟られることを防ぐためで、相手はもちろんのこと、周囲にも気を配る必要があった。余談だが、警察も被疑者のことをマルヒと呼んでいる。例えば詐欺犯は「マルサのマルヒ」になる。
少々気抜けしたが、麻雀を棒に振ってまで待っていた依頼人である。わたしは、にこやかに、わかりましたと言って話を聞くことにした。彼女は、バッグの中から自分の住民票を取り出しながら言った。
「資料はこれだけでいいですか」
わたしは彼女の用意の良さに感心しつつ、大丈夫ですよと答えた。当時はこの種の調査で、十五万から三十万が相場だった。
「予算はどのくらいをお考えですか」
わたしは調査費用を説明し終えると、予算をたずねた。服装からもOLと思われるが、三十万円は無理だろうなと思った。
「わたしはお給料の二か月分でお願いしたいのですが」
「では実費込みで十五万円でいかがですか」
依頼人も、その金額なら大丈夫ですというので商談は成立した。それから調査に関する諸々を伝え、最後に、
「調査されていることをどこかで耳にするかもしれませんが大丈夫ですか」
とも言ってみた。依頼人は、「かまいません」と答えた。
数日後、早川直子の調査を担当した調査員の池原が報告しに来た。
「所長、早川直子の身辺調査の件ですが、これというほどのものは何も出てきません」
「何もってことはないだろう、詳しく聞かせてくれ」
池原はメモ帳を片手に報告をはじめた。
「マルヒの自宅は杉並区にあり、家は最近建て替えたそうです。周囲の住人に訪ねてみても、みなさん羨むほどの円満な家庭のようです。父親は早川史郎。大手ゼネコンの経理部長を務めており、温厚で堅実な人柄で、近所の評判も上々でした。母親のほうも近所づきあいをそつなくこなすし、悪く言う人はいませんでした。