探偵 父をたずねて 1
昭和から平成に変わる頃、依頼人が調査会社に自分自身を調べてもらうという、なんとも奇妙な調査が流行った。
例えば、自宅近隣で自分の噂を集めてほしいとか、勤務先における上司の評価が知りたいといったものや、中には、友人や同僚が自分のことをどう思っているかを知りたいといったものまであった。つまり、自分が周りからどのように評価されているかを知りたいということなのだが、人間関係が希薄になってきたことの裏返しなのかもしれない。そしてこうした風潮をマスコミも「自分探し」と称して面白おかしく取り上げたため、わが探偵事務所にも自分探しの依頼が数件あった。
時はバブルの真っ只中で、不動産も株も天井知らずに高騰した時代だった。株式投資が一般的となり、「投資」という言葉に対する拒絶反応がなくなったからなのだろう、自らに投資するといった気軽な気持ちで、自分探しの依頼が流行ったのかもしれない。そうした自分探し調査ファイルの一つに、「早川直子身元調査の件」がある。
最初はありがちな「自分探し」に過ぎなかったのだが、わたしにとって決して忘れることのできない案件となった。
夏も終わりに近づき、夕方ともなれば、そよ風は頬に優しく、間もなく訪れるだろう季節を予感させた。頃合いはよしとばかりに、一日中しがみついていた机を離れていそいそと外出ようとするわたしを、助手の恵美子が呼び止める。
「もうすぐ新しい依頼人が来るから事務所にいてくださいよ」
恵美子の横で、わたしより年上の池上調査部長が面白がって聞いている。彼はわたしの元同僚で、事務所の拡大に伴い、同業の事務所にいたのを口説いて、一年ほどまえに迎えた男だった。
「部長が会えばいいだろう。調査部の責任者なんだから」
わたしは一刻も早く事務所から逃亡したかった。暇さえあれば、いや、なんとか時間をつくっては雀荘に駆け込むのがその頃のわたしの日課であった。いつもなら恵美子も見逃してくれいたのだが、この日は、わたしを逃がすまいと言葉を続けた。
「ダメですよ、今日は。依頼人が、ここの責任者と会いたいと言ってるんですから。しかも若い女性ですよ」
わたしはしかたなく事務所で待つことにした。
午後六時、約束の時間ピッタリに依頼人はやって来た。
いくぶん涼しい風が吹き始めているとはいっても、昼の暑さも残っている中を少し急いだのだろう、左手にバッグを持ち、もう片方の手で花柄のハンカチを額に当てている。事務所のクーラーは音もなく、各部屋を適温に保っていた。
年のころは二十歳そこそこだろう。わたしには、初対面の人をそれとなく観察する癖がついていた。探偵稼業にいそしむ者の習い性となっているのだろう。
襟元に刺繡をあしらった涼しげな白いブラウスに、濃いグレーのスカート。バブルに浮かれ、派手な服装で着飾る女性が多い中、依頼人の服装は清楚というより質素といえる。普段の暮らしからしてそうなのだろう。背丈は160センチに少し届かないほど。やや痩せ気味で、同世代の女性と比べて小柄な部類だろう。その慎ましやかな姿なりに似合う服装だった。とびきりの美人ではないものの、色白で優しそうな顔が映える。ただ、目元に少し陰が感じられ、どこか寂しげな印象を持った女性だった。
しかし、そんな印象とは裏腹に、口調はしっかりとしていた。
「はじめまして。早川直子と申します」
「はじめまして。わざわざおいでいただき、ありがとうございます。当事務所の所長をしております福田です」
名刺を渡しながら、
「ここの場所はすぐにおわかりになりましたか」
そうたずねるわたしに、依頼人はなんのてらいもなく答えてくる。
「ええ、依頼の電話をおかけした時に対応していただいた女性が、とても丁寧に場所をお教えくださったので、すぐにわかりました」
恵美子を見ると、その声が聞こえたのか、うん、うんとうなずいている。人への何げない気配りができる人なのだろう。恵美子は早川直子をいっぺんに気に入ったようだ。
依頼人はというと、わたしの名刺を手に、物珍しそうに室内を見回している。西日暮里に近い真新しいオフィスビルにあるわが探偵事務所は、三十四坪の広さの部屋を三つに間仕切りし、私の机のあるスペースを応接室に兼用していた。当時、わが探偵事務所の仕事は、弁護士事務所などからの依頼による案件が主なもので、一般の人からの依頼はそれほど多くはなかった。ただ、NTTの営業マンに勧められ、職業別電話帳に形ばかりの小さなスペース広告を出していた。そのせいか、こうした直接の依頼人も少しづつ増えはじめており、その応対も恵美子の重要な仕事の一つだ。早川直子も、この広告を見て電話してきたようだ。事務所に来るのを嫌がる依頼人が多い中、珍しくひとりで訪ねてきた彼女は、ここが信頼できる会社かどうか自分の目で確かめている様子だった。