探偵 父をたずねて 8
「宮本二郎さんをお願いします」
理由を聞くこともなく、受付の女性は、
「いまステージだから少しお待ちください。なんだったら、中に入って待つ?」
と店内に案内してくれた。舞台では、数人の男たちが演奏中だった。その中に、真っ白のスーツを着て、ドラムを叩きながら、当時大流行していた石原裕次郎の歌を、裕次郎そっくりに歌っている人がいた。小柄だが精悍な印象その人が、わたしの実兄だった。ショーが終わり、楽屋の前でぼんやりと立っていたわたしに、ステージ衣装のまま現れた兄は、半信半疑といった顔で、
「政史か」とわたしの名前を呼び、近づいてきた。
「はい」と答えるわたしを誘って、
「ちょっとお茶でも飲もう」と言いながら、さっさと外に出る。慌てて追いかけると、兄はもう喫茶店のドアを開けるところだった。コーヒーを飲みながら、
「ふーん、ユーがマー坊か」と言いながらわたしの全身をしげしげと眺め、灌漑深げに「大きくなったな」などと言っている。わたしはこのとき満二十一歳になっていたから、実に二十年ぶりの再会となる。わたしのほうはまったく記憶にないが、当時すでに学童になっていた兄は、わたしの存在そのものは忘れていなかったようだ。ただ、後年兄がふと「おまえがいきなり訪ねてきたときは、たかられるのかと思った」と漏らした言葉に、わたしは愕然とした。
当時、その業界における兄の地位などまったく知らなかったが、仮に兄がスターだったら、そしてそれを事前に知っていたら、わたしのほうから一方的に面会には行かなかっただろう。わたしは純粋に懐かしさから訪ねたのだが、大人の兄は少し違っていたようだ。兄と再会し、「親父にも会うか」と勧められたわたしは、さっそく父に会いに行くことにした。兄が教えてくれたところによると、母と離婚したあと、父は三和銀行小倉支店に勤務した。その後再婚し、子どもも三人生まれた。兄と会った頃は京都に住んでいた。
後妻の気持ちをおもんばかり、わたしはまず、父方の祖父母の住居を訪問することにした。兄に頼んで祖父に連絡を取ってもらい、父と面会することになった。やはり銀行マンだった祖父も、退職後は京都に移住して不動産業を営んでおり、わたしが訪問すると大歓迎してくれた。祖母など、わたしを見るなり泣き崩れるありさまで、こうして突然現れる後ろめたさや気恥ずかしさを感じたものだった。
ひととおり、父方の親族と面会し、日曜日に父と会うことになった。午後一時、場所は、河原町四条大橋のたもとにある南座前に決まった。つき添ってくれる予定の祖父が急用でかなわず、「それじゃあわたしが」という祖母に、「僕ひとりで大丈夫ですから」と断り、ひとりで南座の前に行った。写真で見たことのある父は、まだ三十代前半だっただろう、五十を超えて面変わりしているはずだ。ひとりで大丈夫と虚勢を張ったものの心細くなってきた。
河原町四条は京都でも有数の繁華街であり、南座の前の通りは、休日ということもあって、行き交う人の群れで歩くのも困難なほど混雑している。果たしてこんなところで、二十年ぶりに、しかも離れ離れになったときにはまだ一歳だったわたしに、父のことが識別できるだろうか。また、父も赤ちゃんだった頃の面影だけで成人したわたしがわかるだろうか。そんなことを考えているうちに、約束の時間になった。
祇園の方から、せわしなく歩いてくる中年の男性が目にとまった。何百人という人の群れの中で、その人も誰かを探しているふに、わたしが立っている方向に目を向けながら近づいてくる。まだ一〇〇メートルはあるだろうか。七〇メートルになる。そして五〇メートル。声をかければ届くくらいの距離になった。その人はまだわたしに気づいていない。だけどわたしは、確信を持って、その人がわたしの父であることを悟った。