探偵 父をたずねて 12
大阪市東淀川区塚本町六丁目×番地、寿アパート三号室。JR塚本駅から徒歩で二、三分のところ、小さな商店街が切れるあたりを左に曲がった住宅街の片隅に、そのアパートはある。大阪では文化住宅というそうだが、木造二階建てに全部で十二世帯が入居している。六畳と四畳半の居間のほか台所とトイレがついている。築年数は二十年ほどだろうか、相当に傷んでいる。これが現在のマルヒの住所だった。
「契約者は女性で、男のほうは七、八年前から同居するようになりました。二人の職業などははっきり知りませんが、夜遅く帰ってくるので、たぶん水商売でしょう。夕方一緒に出かけ、男性だけ先に帰宅することもあります。そうですね、仲はいいですよ」
家主が言うには、家賃の滞納もせず、特別なトラブルもなくひっそりと暮らしているそうだ。わたしは、さらにもう一泊し、マルヒと、同居する女性の顔写真を撮影して帰京することにした。実際に見たマルヒは、身長一七二、三センチでやや小太り。まだ五十前なのにたいそう老けて見えた。勤労意欲に乏しく、少しでも気に入らなければ逃げ出す。全てにおいて覇気のない生き方を続けてきたマルヒであるが、この女性とは相性がいいのか、ほとんど諍いもせず日々のんびりと生きている。あるいは、もう逃げだす気力もないのかもしれない。
帰りの新幹線の車中、わたしは、さまざまな思いに耽っていた。放浪するマルヒの生きざま。彼なりのポリシーがあるのか、ないのか。単に怠け者で無責任なだけなのか、女性を渡り歩き、最後はどんな結末になるのだろうか、わたし自身の父の人生とダブらせ複雑な気持ちになった。昭和五十四年、あっけなく死んだわたしの父は、どのような人生だったのだろうか。新田繁夫の生きざまに思いを馳せているうち、京都で再会した父の生前の暮らしと錯綜した。
父は、母と離婚後、九州の小倉にある三和銀行の支店に勤務し、同じ支店に勤務する女子事務員と再婚する。同女との間に次々に子をもうけ、わたしの兄を交え六人家族になったはずである。ただ、すでに小学校に入学していた兄は、この義母と折り合いが悪く、何かにつけて反抗した。母親のほうも自分になつこうとしない子が可愛いはずもなく、そうこうするうち、自分の子が生まれたものだから、兄に対する愛情はますます希薄になった。そして新妻から、あれこれ兄に対する愚痴を聞く父もまた、兄に辛くあたるようになった。
この点、わたしは幸せだったのかもしれない。結婚もせず子どもを持った経験もない伯母の愛情の対象は、わたし一人だけであった。兄とその人のようになさむ仲ではなく、正真正銘の伯母と甥である。惜しみない愛情をかけられ、わたしも上手に応えたようだ。父はその後、長崎県武雄市に移住した。理由はよくわからないが、すでに銀行を辞めており、数年後、京都で事業を営む父、つまりわたしの祖父を頼って、京都の北白川あたりに居を構えた。わたしが会いに行ったのはちょうどその頃だったらしく、失業中だったとあとで聞いた。そこから亡くなるまでの十数年は失業の連続で、恵まれないまま人生を終えている。自業自得といえばそうなのかもしれないが、人の人生は、その人の努力だけではどうにもならないものだと思う。
父は、わたしの母と離婚こそしたが、後年、母がしみじみ「あんたのお父さんが一番よかった」と述懐したように、嫌味がなく、むしろ可愛げのある男だったようだ、小才も聞いたが、一方で要領の悪い面があり、京都という排他的な土地を選択したことも災いした。もしこれが東京のように、ある意味自由な経済環境の土地に活躍の場を求めていれば、違う世界が開けていたのかもしれない。