探偵 父をたずねて 10
父も母も、朝鮮で生まれ首都京城で育った。かの国が日本の植民地時代の、短い間の出来事である。二人とも特別ハングルを習ったわけでもないだろうが、一番いい時代のノスタルジアを、父なりの方法で、「カムサハムニダ」のひと言に託したのだろう。三十年以上離れていた元夫婦。一方の最後の間際、朝鮮で過ごした楽しかった生活を、共に回想したようだ。その瞬間、二人の間には、離婚を選択した後悔や恩讐は淡雪のごとく消え去って、お互いを許し合えたのではないだろうか。
数日後に、父が亡くなった、と聞かされた。
わたしも、父が死んだ年齢になった。わたしが父と会ったのは、喫茶店で沈黙の対面をしたときと、母を伴って京都の病室に駆けつけたときの二回だけである。兄や叔父たちとはその後も往来はあるが、父とはその後、会う気になれなかった。自分探しのような気持ちで父を訪ねたが、その中にわたしを見つけられなかったかのかもしれない。しかし、血は水より濃いという。当人だけではどうにもならないものらしい。京都。あの日の河原町四条。南座前の雑踏の中で、向こうから歩いてくる、なんの特徴もない、うらぶれた印象の中年男。「あれが父だ」と確信した気持ちは、やはり血のなせるわざなのだろうか。同じ血が流れているというだけで、何十年という空白の歳月も一瞬に回復する、というのだろうか。京都の喫茶店で、父に対し悪態をついたわたしは、どこかでその人を恨んでいたのか。いや、恋しく思っていたのだと、いまになって気づく。離れているからこそ、知らず知らずに芽生える思いもある。
新幹線車中で父との感傷を振り払い、京都に降り立ってからはわたしは、依頼人から提出された戸籍謄本に基づき調査に没頭した。マルヒは、昭和十六年、兵庫県西宮市で出生している。両親の欄を見ると、普通の家庭で育ったことが推測された。続柄はわたしと同じ三男である。持参した早川直子の戸籍謄本の記どおり、昭和三十九年二月一日、森本和子と婚姻とあり、同年四月五日に依頼人が生まれている。そして、その年の十二月、新田夫婦は協議離婚している。ここまでは問題ない。ところが、同日マルヒは別の女性と婚姻しており、依頼人の次の欄に妻洋子とあった。つまりマルヒは、依頼人の母親と離婚したあと、時を置かず再婚しているのである。
依頼人の母親との結婚生活は、極めて短期間で崩壊していた。結婚を前提としたつきあいではなかったものの、相手が身ごもり産み月が迫ったため正式に婚姻したが、そのときすでに愛人がいたのだろう。出産を終えた妻は、そのことを知ると子どもを連れて家を出てすぐに離婚。代わりに愛人が正妻の座にすわった。さらに驚いたことは、後妻との間に、依頼人と同年齢の女児をもうけていることだった。すなわち、新田繁夫は二人の女性と同時進行で交際し、それぞれの女性が時を経ずして身ごもったことになる。依頼人の母親はそうしたマルヒの性格にさっさと見切りをつけたようだが、それからわずか一年後、後妻の洋子とも離婚していた。
その後の聞き込み調査で大阪へ転居したことを突き止めた。わたしは、さっそく現地での内偵(聞き込み)調査を行った。大阪府港区築港は大阪港に近い出島のようなところで、現在は地下鉄中央線が延び、橋もできたため交通の便はよくなったが、当時は大きく迂回しなければ目的地に行けなかった。工場や商店に交じって、しもた屋がある。そんな中に、もうかなり長い間営業しているだろう風情を漂わせながらクリーニング店は存在していた。家屋は木造二階建てで、二階が住居になっており、一階奥に業務用の洗濯機が置いてある。
店舗部分は十坪ほどだった。六十過ぎと思われる男性が黙々とアイロンがけをしており、その横で四十代半ばの夫人が接客をしていた。わたしは、あれが新田繁夫の妻佐和子だなと思いながら、通行人を装い、建物の前を行き来しながら観察した。