探偵 布団 1

「こちらは、東日本信託銀行中野支店です」
電話の主は何げない調子を装い、そう告げただけで沈黙した。待ちに待った知らせである。
「どのくらい引っ張れますか」
気がせくのを抑えながらわたしが聞くと、
「いまいらしたばかりですから、三十分ほどは大丈夫です」
先方は声をひそめる。
「わかりました。それならば十分間に合います。ありがとうございました」
わたしは電話を切るなり、調査員二人を連れて事務所を飛び出した。わたしの探偵事務所からJR中野駅まで、車で十分もかからない。
-うまくいきそうだ。

そう思いながら、中野駅前の東日本信託銀行に急行した。そこには数か月前に家を出た依頼人の妻、遼子がいるはずである。

知り合いの弁護士さんに紹介されましたと言って、仲村という中年の男性がわが探偵事務所を訪れたのは初秋の頃だった。依頼内容は妻の家出調査だった。依頼人はサラリーマンで、某大手企業に勤務していた。家出した妻は夫より三歳下の三十九歳というから、夫は四十二歳である。二人の子どもも高校生と中学生になり、手がかからなくなったからと言って、妻はパートに出たという。そして、ある日突然、家に帰らなくなってしまったらしい。

もちろん、それまでそんなことはなく、夫が帰宅する頃には食事の支度もできていて、子どもたちを交えた家族全員で夕食をすませるのが日課だった。中野区内の住宅地に、ローンでマイホームも購入しており、平凡ながら典型的な中流家庭を営んでいた。
「わたしは、妻がパートに出るのは反対だったんです」
特に家計が苦しいわけではなく、いざというときに使える蓄えも多少はあったと依頼人は言う。そんなある日、妻からパートの話を切り出された。昔気質で、常々主婦は家のことをしていればいいと思っていた依頼人は即座に反対したが、
「子どもの友達のお母さんも行っているし・・・その人にぜひとお願いされて、もう返事しちゃったわ」
などと妻から一方的に言われたために、漠然とした不安はあったものの、毎日の生活がそんなに退屈かもと思い直すと、しぶしぶ承諾した。しかし、依頼人が密かに覚えた不安は、見事に的中した。

パートに出るようになってからの妻は生き生きとし、それまでとは別人のように明るくなった。パートに出るまでの妻は良妻賢母を絵に描いたような女性で、余計なことは一切言わず、子どもにも説教めいたことはしなかった。ましてや、夫に対して口答えなどしたことはなく、少し覇気がなさすぎるくらいおとなしかったという。しかし、パートに出てからは、夫や子どもらにも自分の意見をはっきり言うようになり、進んで冗談も言って家族を爆笑させたりした。

夕飯のときも職場の話を次々にするようになったという。パート先の仕事は、食品を袋詰めにして得意先に発送するといった単純な作業ながら、ものすごく楽しいとも言っていたようだ。外で刺激を受け、それまでの子育て中心の生活から解放されて未知の環境に触れたせいか、何歳も若返ったように見えたという。パートで疲れているはずなのに夫婦の営みも積極的に求め、これまでどちらかというと引っ込み思案だったのが、たいそう積極的になったらしい。

ところが、パートに出はじめて一か月ほど経った頃から、妻の様子が微妙に変化してきた。団欒のときの職場の話が少なくなり、そのうち夫が帰宅しても、夕飯は出来ているのだが、妻の姿がみえないという日ができるようになった。どことなく依頼人が不信感を抱くようになったとき、悪いことに勤め先の事情で、月に三、四日、夜勤が義務づけられることになった。

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