探偵 夜店 7
こちらは、周囲に漏れる懸念はありません。ただ、妻に知られ、その妻が、拳を上げて戦いを挑んできたと、ご主人はそう思うでしょう。そんなとき、ご主人はどうするでしょうか。ご主人の性格や、思考方法などについては奥さんが判断してみて下さい。もう一つの方法ですが、僕が最初に言ったように、くさいものには蓋をする方法です。これは、奥さんの忍耐だけですみます」
そう言って、依頼人の反応を待った。しかし依頼人は、しんとして、ひと言も発しない。無理もなかった。母に忠告されるでもなく、なんとなく変だなと思っていたが、調査の結果、十数年前から自分以外の女性と交際し、子どもまでもうけ、似て否なるが、歴とした家庭を持っていた。驚き、唖然とする一方で、完璧に裏切られた悔しさと、もしかしたら大切な家庭を失うかもしれない不安に、依頼人の心は、苛まれているに違いない。あるいは、音小野わたしにはおおよそ理解のできない、成熟した女性特有の深層心理に苦しんでいるのかもしれない。
喫茶店での話し合いもすでに二時間以上経過した。腕時計を見ると五時を過ぎている。わたしが、「おうちのほうは大丈夫ですか」と聞くと、依頼人もチラッと時計に目をやり、「母に来てもらってます」と言う。わたしは、そろそろ店員の目も気になりはじめたので、場所を変えましょうというと、依頼人を促して外に出た。季節は秋。十月に入り、外はもう薄暮だった。すうっと頬を撫でる風もひんやりと心地よく、新宿の街のネオンがわたしに、何かを語りかけたような気がした。その後、依頼人から何も言ってこないまま年が変わり、それまで、あの依頼人や、マルヒと内山律子母子のことなどを。ときどきは思い出していたが、そういう記憶も薄らぎかけた頃、別件の調査で、武蔵野市の芦田方の近くまで行った。小さな神社があり、緩やかに曲がった道に沿って、依頼人宅があるはずである。わたしは終了した調査や、その後の依頼人の動静に、関心を抱かないように心がけている。探偵の職種倫理からしても、ご法度であるし、依頼人も心の古傷に触れられたくないだろう。ただ、この日は、なんとなく芦田家の外観だけでも見たいと思った。幸い車両で行動していたので、依頼人と遭遇する危険も少なかった。わたしはスピードを落とし、何げなく通過したが、玄関前はきれいに整えられ、わずかばかりの庭の植木も剪定されていた。そして、門扉に取りつけてある表札には、主の芦田忠雄の名前に続いて、紀子という依頼人の名前や、二人の子どもたちのものが、しっかりと書かれていた。