探偵 夜店 3
例えば、夫の財布にホテルの領収書が入っていたとか、背中に爪で引っかかれた痕がついていたなどと、まことしやかに疑惑の原因を並べ立てては、いかに自分の判断が正しいかを強調する。しかし、何日調査しても、マルヒにはあやしいそぶりはなく、毎日、判で押したように帰宅してしまう。結局、依頼人が勝手に想像した話だとわかり、われわれは調査費用はいただけるとはいえ、強い疲労感を覚えたものだ。そんなことを考え、依頼人の返事を待っていると、依頼人は少し考えてから笑い顔になり、「このあいだ田舎から母が来まして変なことを言うものですから、それでなんとなく気になってしまって。そんなことはないとは思うのですが、はっきりとさせておいたほうがいいのではないかと思ってしまったのです」こう言いながら、依頼人は口を押さえてさもおかしそうに笑っている。わたしはそんな依頼人を見て、幸せなんだなと思った。七十を超える母親が、自分たち夫婦と散歩中、夫が小ちゃな女の子のオモチャばかり見ていたからあやしいと忠告して帰っていったと話たあとで、「母は心配性ですから」と自ら打ち消してしまった。そのことに気づいたのか、「最近、わたしの友達のご主人の不倫騒動があって、その人の相談に乗っているうちに母の言葉を思い出し、他人事じゃあないかもしれないって考えるようになったのです」とつけ加えた。とどのつまりは、依頼人に確たる証拠は何もあにのだった。ただ漠然とした不安を払拭するために調べておきたいといったことだった。
目の前に座っている幸せそうな夫人が、探偵社を訪れた経緯はこんなことだった。しかしわたしは、依頼人が最初に言った、「夫は仕事の都合で、めったに帰宅しない」という言葉を聞いたときから、強い確信を持っていた。可哀想だが、この依頼人の夫は、間違いなく浮気をしているし、場合によっては、単なる浮気にとどまっていないかもしれないという勘働きがあった。この頃は、まだ探偵になって二十年あまりしか経っていなかったが、変な自信を持って、この依頼を引き受けた。依頼人は、調査申込書に住所と氏名を記し、着手金十万円を置いて帰っていった。
翌日からさっそく調査に入った。マルヒはこの日、千葉県市川市の現場にいた。午後四時、張り込みを開始する。午後六時を少し回ったまだ明るさの残る頃、プレハブで造られた現場事務所からマルヒが出てきた。依頼人から預かった写真のとおりの人物である。身長一七〇センチ、やや小太り。眼鏡は使用せず、この日は夏物のジャケットを着用し、やや不似合いに思えるくらい立派なカバンを持っていた。マルヒはゆったりとした足取りで、JR総武線市川駅方向に歩く。午後六時三十分、市川駅南口に到着。券売機の上にある案内図を見ながら切符を購入(マルヒは千円札を使用した。お釣りの様子から少し遠距離と推測する)。しばらく待つうちに総武線普通電車三鷹行きがホームに滑り込んでくる。マルヒの乗車を見届けてわれわれも車内に入る。マルヒの家は武蔵野市中町にある。このまま三鷹まで行き、北口から歩けば十数分で着くはずだ。わたしは同行する調査員に、「やつは今日家に帰るのかな」と囁いてみる。二人の調査員も面白くない顔をしてうなづく。車両の真ん中のドアから、進行方向に向かって左側の座席に座ったマルヒは、鞄から取り出した文庫本を読みはじめる。午後七時四分、秋葉原駅に到着。三鷹まで行くだろうとの先入観はあったが、駅に着くたびに多少緊張しながら見守っていたわれわれは、マルヒが予定どおりといった感じで下車したため、慌ててそれに続いた。マルヒは山手線と京浜東北線の品川方面行きホームに移動した。