探偵 夜店 2
眠れぬままあれこれ思いをめぐらせたが、確たる判断材料のない状況で思考はまとまらず、気がつくと朝になっていた。その後、友人から何度か電話があり、その都度紀子なりにアドバイスをしたが、紀子自身もあの日以来、なんとなくスッキリしない日が続いた。外で、一生懸命自分たちの家族のために働く夫を疑うことの後ろめたさはあったが、小骨がノドに引っかかったような、気分の優れぬ、得体の知れない不安と焦燥に苛まれた。夏も終わりに近い九月の月曜日。わが貧乏探偵事務所に新しい仕事が舞い込んだ。依頼人は女性で、ありふれた浮気調査だった。年齢は四十歳くらい、とびきりの美人ではないが、暮らしの余裕が感じられる、印象のいい婦人がその日の依頼人だった。少し不安そうな顔で事務所に入ってきたその人は「武蔵野市の芦田です」と名乗った。身長一六二、三センチくらい、太っているというほどではないが、しもぶくれの顔が全体をぽってりとした感じに見せ、夫のことで探偵事務所を訪れる女性に見られがちな疲労感はなかった。服装も、その年に流行った辛子色のスーツをお洒落に着こなし、持っているバッグも外国の有名ブランドだった。「夫のことでご相談したいことがありまして。探偵社さんに依頼するのは初めてなんですが」とやや緊張した面持ちで話しはじめたところによると、依頼内容は次のようなものだった。芦田忠雄という依頼人の夫は、建設会社を経営しているという。年齢は四十七になる。わたしは、男盛りだなとは思ったが、口にはせず、黙って次の言葉を待った。依頼人は、少しためらったあと、「私の思い過ごしだと思いますが」と言うと本題に入った。依頼人の夫は仕事柄ほとんど家に帰らない。建築の現場が神奈川や千葉、遠い所では福島県にもあるらしい。そのため、十日とか二週間、留守にするのは日常茶飯事で、一、二か月の長期になることもある。「ですから、わたしは夫が帰らないことに不満はないのです」そして、いままでただの一度も疑ったことはないとつけ加えた。さらにたいへんな子煩悩で、たまに帰宅するときは抱えきれないほどのお土産を持ってくる。いまでは、子どもも大きくなり土産こそないが、その代わりに夜遅くまで子どもたち二人の話し相手にあり、頼りがいのある父親として子どもからも信頼されているといった話のあと、「わたしにも優しくしてくれます」と言葉を続けたときは、なぜか頬を少し赤くした。「そういう状況で、どうしてご主人のことを調査なさろうと思ったのですか」わたしは初めて口を開き質問した。調査料は決して安くない。ましてや、素行調査で数日間にわたって張り込み調査、尾行調査を行えば、すぐに百万円以上になってしまう。恰好つけるわけではないが、お金になるならなんでもいいとは思わない。依頼人にとってほんとうに必要なものかどうか、調査の種類によっては、その人の一生を左右する場合もある。大袈裟にいえば、その人の人生の岐路に、調査を通じてわたしたちが関わってしまうのだ。それに、達成感のない仕事はつまらないといった側面もある。まれに、軽いうつ状態の夫人が、何かの拍子に、ひどく夫を疑ってしまうことがある。この場合、基本的に思考回路が乱れているので、夫のちょっとした言葉や、しぐさまでが疑惑の対象となり、あらぬ妄想へと発展してしまうのだ。わたしの事務所でも、一年に一人くらい、そんな依頼人に遭遇することがある。たいていは、二、三分話せば、あ、この人は病んでいるなと気づくこともあるが、中には、探偵が騙されるくらい上手に話を創作する依頼人もいる。